ミチクサダイアリー

飽き性を克服するべく、もう一度だけ挑戦することにしました。ブログ。

LGBTを「支援」するという言葉のために誤解が生じているという可能性

杉田水脈(みお)議員の「LGBT支援は不必要」という訴えが話題になっています。

注目されているのは杉田議員のこちらの記事。

  1. 生産性のあるものと無いものとを同列に扱うことはできない。
  2. 「女性の権利あるいはLGBTの権利を認めよ」という主張は「女性の特権あるいはLGBTの特権を認めよ」という主張である。日本では基本的人権が性別・年齢問わず保障されているのでこうした特権を女性やLGBTに認めるべきではない。
  3. 山積する課題がある中、優先して取り組むほど重要な課題であるとは考えられない。他に優先してやるべき事業がある。

という3つの理由から、「LGBT」に対する支援策は不要という主張をされています。
杉田議員はもともと男女共同参画社会及び男女共同参画社会基本法女性差別撤廃条約に反対を表明している立場ですから、この方がこうした主張をすることそのものについては特に驚くべき事態というわけではないと思います。

なんといっても

男性に向かって「子供を産みなさい。」と言っても無理です。この事実がある以上、いくら男女を平等に扱おうとしてもそこに物理的に無理なことがたくさん存在します。これは差別ではなく区別です。(上記事より引用)

こういう考えをお持ちの方なのでですね…。
今からおよそ一ヶ月半ほど前に、曽野綾子さんが産経新聞に寄稿した「ひどすぎる」コラムが問題視されました。
このコラムでも「差別ではなく区別」といった言葉が用いられていました。
これは差別を正当化しようとするときに高頻度で用いられる言葉です。
たとえば「それは差別だ」と指摘されたときに「いいえ、これは正当な区別です」というように用いられます。
杉田議員は男女共同参画社会基本法女性差別撤廃条約に明確に反対の意を示している、言い換えればはっきりと「女性差別」を肯定している立場です。
なので「女性特権を認めるな!」はこの方の主張としては驚くべきことではありません。
その主張を認めるかどうかというのはまた別の話ですよ。私は絶対に認めないけど。

今回は「LGBT」いわゆる「セクシュアル・マイノリティ」への支援策が主な焦点です。
これについて私はまず「支援策」という言葉を用いていること自体に違和感を覚えています。
「支援策」という言葉を用いているがために、水掛け論に発展してしまうのではないかな?と感じるためです。
その理由はごく単純です。
もともと権利が平等に認められていない立場の人たちを「平等」というところまで引き上げる
これって「支援」なのでしょうか。私としてはちょっと違うと思うのです。

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絵がへたくそで大変申し訳ないんですけど、図にすればだいたいこういうことですよね。
穴に落ちている人を助ける場面を想像してみてください。
穴に落ちている人を「支援」するって言わなくないですか?
穴に落ちている人を「救助」するって言いませんか?
「支援」という言葉が使われることで受ける印象が変わってしまっているんじゃないかな~と思うのです。

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もし平等な状態で右側の人だけを「支援」するとこんな風になっちゃいますよね。
たぶんこっちのイメージに近いものを抱いているのではないかな~と想像するわけです。
杉田議員の主張は「基本的人権が保障されている以上、女性特権・LGBT特権は認められるべきではない」というものです。
これはたぶん私が描いたイメージ図の2つ目の方に近い考えだと思われます。

実際のところはLGBTはマジョリティが当たり前のように享受している権利の一部を剥奪された状態であり、穴に落ちている状態の方が近いと考えられます。
なので反論として「特権は認められない!」は違うと思うんですよね。

それからLGBTに関わる問題が取り上げられた時に必ずと言っていいほど言及する人がいる「生産性」。
この言葉を見聞きするたびに心底腹が立ちます。
セクシュアル・マイノリティに対してはもちろん、マジョリティとしての異性愛者に対しても差別的です。
そもそも子育てに対して「生産」という字をあてることを私は不愉快に感じるのですけどね。
人によって異なるライフスタイルが確立されつつある以上、ケースバイケースで柔軟に対応する必要はあると思います。
子育てをするという選択をした人に対して「あんたが産むって言ったんだから。自己責任」などと言って負担を強いることがあってはならないと思いますし、子育てをしないという選択をした人に対して「生産性がないので同列には扱わない」と言って差別をすることもあってはならないと思います。

多様な生き方があることを認め、その上で援助が必要となる人たちを支える仕組みを成立させる必要があります。

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今回はLGBTに関わる問題について「穴に落ちている人」を助けるイメージ図を使って説明しました。
「穴に落ちている人」のイメージ図を使ったのにはわけがあります。
それはこうした問題を考えるときに「穴に落ちている人」だけが「穴から出ようとする」のでは絶対に穴を抜けられないと考えているからです。
穴に落ちている人を助けるために、穴の中に救助用のロープを端から端まですべて放り込むことがあるでしょうか。
救助用のロープの一端は地上に出ている必要がありますよね。じゃないと這い上がれない。
じゃあロープの一端はどうするの?という話です。
地上にいる人がロープの一端を地上のどこかに固定したり、持っていなければいけませんよね?
私はこの「地上にいる人」の役割の大きさについて考えることがしばしばあります。
「マイノリティだから助けろ!」と言っているわけではありません。
ただ相互にロープの端を握らなければ穴からは出られないということ。
つまりどういうことか。積極的に歩み寄ることの必要性を訴えている、ということなのです。

おそらく、「まあ助かるんじゃない?」と思って穴の周りを覗き込んでいるだけの方がいちばん多いのではないかな?と想像しています。
そういう人たちが「ちょっとロープを引っ張ろうかな」という気持ちを抱けるようになればだいぶ状況は好転すると考えているんですよね。

というわけで「支援」という言い方によって誤解が生じている可能性について書きました。
このことについては自分自身がバイ・セクシュアリティというマイノリティ側の立場であるため、冷静に書ききれていないところがあるように思います。
もし万が一不備や偏りが見受けられるようであれば、随時ご指摘いただければ幸いです。

 

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