ミチクサダイアリー

飽き性を克服するべく、もう一度だけ挑戦することにしました。ブログ。

「2分の1成人式」に傷つけられるこどもたち~異なる境遇への「想像」~

10歳の節目を祝う学校行事「2分の1成人式」のあり方が問われています。


親への感謝の手紙自分の名前の由来についての作文を書かされ、それを親に披露するという行事です。
私が10歳のときはなかったけれど、5歳年下の弟が10歳になった年には開かれていました。
授業参観の日の授業が「2分の1成人式」の開催にあてられたそうです。

この行事のために、深く傷つくこどもたちがいます。
今日はその「2分の1成人式」という行事に傷つけられるこどもたちについて考えてみたいと思います。

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◆被虐待児にとっての「親」

「2分の1成人」=10歳のこども と対比されるのは必ず 「おとな(成人)」=親 です。
「2分の1成人式」では、自分が生まれた日からこれまでの10年の生を振り返ることが強制されます

すべてのこどもが、家庭での生活に幸せな思い出を持っているわけではありません。
親から虐待を受けたこどもたちにとって「振り返る」「感謝を述べる」ことを強いられることは苦行でしかありません。

 

◆異なる境遇 理解しきれなくても「想像」ならきっと出来るはず

幸運なことに、私は両親からたくさんの愛情を注がれて育ちました。
母親が私に付けた名前には、「こういうように育ってほしい」という願い*1が込められています。

家庭での思い出に不幸なものなどひとつもないし、両親の夫婦仲もこれでもかというほどに良好。
このように恵まれた環境で育てられたため、私には虐待を受けて育ったこどもの気持ちは到底理解できません

ただ、身近に親からの虐待を受けて育った人がいます。
婚約者であるにむすけ君。彼は幼い頃に実の母親から精神的・肉体的な暴力を受けています。
二人いる彼の姉には名前の由来があります。
その一方で、長男として生まれた彼は家業を継ぐことが望まれたため、単に「字画のいい」名前が付けられたそうです。
名前の由来を尋ね、「お寺の坊さんから字画のいい名前を付けてもらった」と返されて傷ついた思い出がある、と…。

私は前述の通り、親の願いが込められた名前と溢れんばかりの愛を受けて育っています。
にむすけ君のような境遇で育った人のことは、はっきり言って理解しきれません。
「あなたの気持ち、わかるよ」なんて無責任なことは絶対に言えない。死んでも言えない。
それでも、慮ることだけはできる。

相手のすべてを理解できないとしても、「想像」することはできるはずです。

 

◆こどもに考えさせるぐらいなら、おとなに考えさせるほうがまだいい

10歳を迎えたこどもに10年を考えさせる。
こどもからすれば、これは「自分の生涯すべてについて考える」ということ。
10年のうちに苦しい記憶を持っているこどもにこれを強いることは、「生涯すべてを否定させること」でもあります。

こどもにその人生を否定させる、そういう危険性をはらんでいるのが「2分の1成人式」。
これを「考え直そう」という動きが出てくるのは当然のことです。

ただ、10年という節目で「家族について考える」きっかけ作りとしては悪くないというようにも思うんです。
それを強いてはならないというだけで。

ですから、どうしても「家族について考える」きっかけ作りとしての「2分の1成人式」のあり方を考えるなら
こどもに「自分の生涯すべて」と向き合うことを促すのでなく、
おとなに「自分の生涯のうちの10年間」と向き合うよう促す形にする方がいくらかましだと思います。

が、私はこの行事を開くことそのものに否定的な立場ですね。
そこまでして開催する必要性がまったく感じられない…。

 

人によって異なる境遇についての「想像」をすることを忘れないようにしたいです。
特に、私にとってこうした問題は身近なものでもあるので…

*1:本名は糸へんを含む名前。一本一本の糸は弱いけれど、織れば強く、美しい布になる。学び、健やかに育ち、美しい織物のような人生を歩みゆくように、とのこと。弟の名前も似たような由来。平面に大きくなるものに対し「上方に高く積み上げていく」という意味の漢字が使われている