ミチクサダイアリー

飽き性を克服するべく、もう一度だけ挑戦することにしました。ブログ。

クソすぎた学校教育と恵まれていた家庭学習の環境について語る

 どうして古典を「勉強」するの?意味あるの?⇒あるよ!

この記事。むちゃくちゃ反響ありました。
「注目ブログ」に掲載されていたブログが突如消失した経緯について簡単に触れたことも関係しているとは思います。

でもやっぱり、「勉強」については皆さまいろいろと思うところがあるんだろうなあと…。

私の記事について言及してくださった記事の中から、今回はこちらについて取り上げてみることにしました。

上の記事を書いた方々*1恵まれてるな、って思いました、純粋に。

僕の通っていた高校は、いわゆる田舎の自称進学校で、古文や漢文も当然受けました。センター試験でも受けました。(ちなみに理系でした)

でも、授業で教えられることって、古文や漢文の細かーい文法事項や、試験で点を取るためのテクニックであって、なんの面白みもありませんでした。(上記事より引用)

というわけで…
今回は、私の学習環境の「恵まれていたところ」とそうでなかったところ、の話をします。
結論から言うと「家庭での学習環境が恵まれていたことは事実」ですが、
クソみたいな学校教育下で育ったことも事実」です。そういう話をします。

 

◆クソみたいな学校教育 ~高校時代の振り返りたくない思い出の数々~

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私の通っていた高校も進学校でした。偏差値は69ぐらい。
普通科のみの公立高校で、およそ8割が理系を選択。私にとっては両親の母校でもあります。

私はこの学校で精神をこてんぱんにやられました。ひどい学校だったんです。

<高校教師が文系を選択した学生に言い聞かせたこと>
・文系を選択するのは「甘え」。
・文系の学生は頭の出来が悪い。
・どうせ大半は数学が嫌いだから文系にしているだけ。論理的思考とかできやしない。
・文系は学ぶことから逃げ続けているダメ人間。

こういうことを常時言われ続けていました。
要するにこの学校、8割の理系を鼓舞するために2割の文系を貶し続けることを選択していたのです。

両親が通っていた30年前はこんな感じではなかったそうです。
むしろ学生がのびのびと学ぶ環境が整っていた、と…。
「成果」を出すことに固執しすぎたがためにおかしくなってしまったようです。

こんな有様ですから、当然授業で学習することも「試験で点を取るテクニック」にすぎないものばかりでした。
でも、多くの学生側もそれを求めてしまっている状況だったんです。
新任教師に対して「お前の授業じゃスキルが身につかない!ベテラン教師と替われ!」と授業ボイコット起こしたりとか…。
もう、とにかく頭おかしいとしか言えない環境だったんです。なんの面白みもない勉強しかさせないし、しない学校

 

◆家庭での学習環境が「恵まれていた」 「勉強」の意義を教えてくれた両親の存在

家庭での学習環境が恵まれていたのは、私の両親が大変な勤勉家であるためです。
両親は「勉強」にきちんと意義があること、そしてそれをやるかやらないかは自ら選択すべきだと教えました。

両親は、最低でも高校は卒業すべきだと考えています。
が、その先の進路の決定はすべてこども自身に委ねます。

私は「もっと学びたい」と考えたので、大学に進学して学んでいます。
私の弟(5歳年下、現在高校1年生)は大学に進学するほどの学は自分にはないと考えたようでしたが、
あれこれ悩んだ末に警察官になるための勉強を始めました。

やるかやらないか、の選択肢を与えられた上で「やる」という答えを出せる環境で育てられた
これは非常に「恵まれている」ことだと思います。両親にはただただ感謝するしかありません。

両親が教えてくれた「勉強」をする意義は、大きく分けて2つ。
・「考える」ために必要なアイテムを獲得する。
・「考える」ためにアイテムを使う方法を知る。
アイテムとは、具体的には語彙やある事柄への基礎知識、法則などの知識のこと。
要するに、知識を吸収⇒吸収した知識の使い方を知る⇒実践する⇒「考える」ということ
ということなのだと思います。
もっと崩した言葉に直せば、「勉強をすればいろんなことを考えられる。だから意味があるよ!」というところでしょうか。

「数学なんか将来使う機会ないし!」と憤りながら机に向かっていた私を慰めた父親の一言は今でも忘れられません。
とても心に響いた言葉なので、紹介しておきます。

ひとつひとつ順番にものごとを考えていく力を身に付けていこうね、っていうことをいきなり数式の形で押し付けているのが学校の数学。そういうやり方はまずいとしか言い様がないけど、ひとつひとつ順番に考えていくのは大事なことだよね。だからそれを学ぶことに意味がないわけはないよ。使う機会があるとかないとかではなくて、なぜそれを学校で教わるのか、自分で納得できる理由を見つけられたら無意味だとは思えなくなるはず。それに、大変ではあるけど、自分で理由を見つけて頑張り続けることにはもっと意味があると、お父さんは思うよ

 

まあ、こういう環境で育っている人間の書いた記事なので現実味を感じられないのも無理ないと思います。
特定の「答え」を押し付けてくる国語の試験に関してはいろいろと書きたいことがありますが、またこれは後日改めて。

 

ちなみに、上で紹介した記事の最後にはこんな質問がありました。

ちなみになんですが、文系だった方々は高校時代に週に2時間、生物を勉強していたと思うんですが、そういうのについてはどう思っているんでしょうか。

「生物楽しかったぜ!」「生物の授業から貴重な考え方が学べたわ!」「生物なんて今も昔も役に立ってないぜ!」

ってのが気になる今日このごろ。(上記事より引用)

上記の学習環境で育ってきたので何の参考にもならないとは思うのですが!答えますね!

生物の授業はスーパー楽しかったです!!!!
中でも、豚の目の解剖実験が印象に残っていますね。
悲鳴をあげたり号泣したり嘔吐したりする女の子の傍らで水晶体に夢中になってました。
まるで本物の宝石みたいなものが生物の体の中にあることに神秘を感じたんですよ。

成績はそんなによろしくありませんでしたけれども(笑)。

自分の体の内外で起こることを科学的に説明できるんだ!っていうことを知るのは楽しかったです。

*1:最初に記事を書いたぜろすけ(id:zeromoon0)さまと、それに対して言及した私のことです