ミチクサダイアリー

飽き性を克服するべく、もう一度だけ挑戦することにしました。ブログ。

「ブス」を救う方法を母親の問題発言をヒントにして考察してみた。

この記事と、ブックマークコメントを読みました。


自称「ブス」という女性が書いたテンポがよく非常に読みやすい文章。
女性なら誰でも化粧である程度どうにかできるよ!がんば!」という声に対して書いたもの。
化粧で克服できない「ブス」もあるんだ!という内容です。

…が、ブックマークコメントには「結婚できたんだからいいじゃん」
「心がブスだとどうしようもないね」といったコメントも寄せられています。
かなりもやっとしたので、今回はそれについて書いてみたいと思います。

 

◆「ブス」「美人」が原因で個人としての成果を認めてもらえない

「結婚できたんだからいいじゃん」。
この言葉は「男に評価されたからいいじゃん」ということを意味しています。
女は男に評価されたくて生きているわけじゃない。

外見のことで悩む女性は多いです。なぜなら女性は「外見で評価されてしまう」機会が男性より圧倒的に多いから。
STAP細胞で話題になった小保方晴子さんは、捏造疑惑が浮上する前までは外見のことばかり褒められていました。
理研では「お姫様」扱いをされていた、といった報道までされていたのが印象的でした。
しかし論文の捏造疑惑が浮上すると今度は彼女自身の能力、業績に焦点を当て非難する内容が続きました。
成功したとき褒められるのは外見、失敗したときにけなされるのは能力です。
顔立ちの美しくない女性はまず業績や能力を認められる舞台にさえ立つことを許されません。
このため、女性の外見は一生を左右する要素になりがちです。

これを踏まえると「結婚できたんだからいいじゃん」がいかに筋違いかわかります。
「ブス」を悩んでいる女性は、自分の能力や業績が「ブス」であるために正当に評価されないことで苦しんでいます。
当然、「美人」である人も「美人」というところだけを褒められてしまうため正しい評価がされないともいえます。
よくまとめスレなんかで見かける「美人すぎる~~(役職名など)」みたいなあれです。

いずれにしろ言えるのは容姿に関わらず個人として正当に認めて欲しい!ということ。
上記の記事を書いた女性は、おそらくこんなことを思ったのではないかと推察します。
「化粧で改善できるブスばかりじゃないよ。こういうブスだっているよ。それを認知してほしい」

男に評価されたいわけではない。
みんな簡単に「ブスは化粧で克服できる」というけれど私にはそれが通用しないんだ。
そういう人も少なからずいるはずなんだ。もっとそのことを知ってほしい。

この記事を、そういう叫びだと私は理解しました。

 

◆「ブス」は一方的に押し付けられるものにすぎない

 「心がブスだとどうしようもないね」。

そもそも「ブス」って悪いことなの??
というより、「ブス」に基準はあるんでしょうか。

「ブス」には実体がありません。
誰が「ブス」なのかは「ブス」呼ばわりする側が勝手に決めます。
私は「ブス」呼ばわりされてからかわれたことはありませんが、体毛の濃さを長年笑われてきました。
くっきりとした濃すぎる眉毛、びっしりと生える腕・足の毛…。
ついたあだ名は「マウンテンゴリラ」に「両津勘吉」。

外見についてのネガティブイメージは勝手に背負い込むものではなくて、誰かが「背負わせる」ものなのです。
これは経験に基づいた話なので強調しておきます。

残念なことに、人を美醜でしか判断できないという人がそれなりにいます。
実際に私はそういう人から美醜を一方的に判断され、その判断に基づく言葉で揶揄され続けました。

「心がブス」ということが仮にあり得るとしたら、それは「ブス」を背負わせた側に原因があることが大半です。
実際、私の場合はいじめられるようになるまで自分の体毛が濃いなんて思いもしませんでした。
「ブス」は一方的に押し付けられたもの。
一方的に押し付けられた価値判断から抜け出すには大量のエネルギーを消費します。
それだけの活力を持った人が稀に「お笑い芸人」として出世したりするのだと思います。

…が、そのお笑い芸人を見て「相手がブスならああやって揶揄していいんだ!」と思う馬鹿が出るという悪循環。

 

◆幸か不幸か、母親の問題発言のおかげでネガティブイメージから脱却した話

私の話をします。
「マウンテンゴリラ」という押し付けられたネガティブイメージから脱することができたのは母のおかげでした。

「マウンテンゴリラ」というあだ名をつけられ、陰口を叩かれたりしていることを
両親にはひた隠しにして何年も過ごしてきました。むやみに心配させたくなかったのです。
が、あるときもうどうしようもないぐらい辛くなり、学校を休みたいと思いました。
学校を休むためには理由がいるので、母親にはそれを打ち明けようと決心しました。

私「おかあさん、わたしね、学校でマウンテンゴリラってあだ名で馬鹿にされてる。もう学校行きたくない」

母「あらそうなの?じゃあお母さんは今日からマウンテンゴリラのお母さんだね」

文章に書き起しながらいま改めて思いましたが、
これどう考えてもおかしいですよね??

「そういうこと言って欲しかったわけじゃない!」と初めはすごく憤りを感じました。
が、マウンテンゴリラと言われていたことが次第にどうでもいいことに思えてきました。
これはおそらく、私にとってネガティブな意味合いを持っていた「マウンテンゴリラ」という言葉を
呆気なく「明日はピクニック♪」と同じくらいのノリで母が受け入れてしまった
ことによって押し付けられた価値観が崩壊したためだと考えられます。

これを「ブス」に当てはめるなら
「おっ、仲間だ!いいよねブスって!美醜でしかものを考えられない恋人できにくいしねっ!」
と言ってくれるような人が見つかったとき、ネガティブな「ブス」からの脱却がはかれるのかな…と。

逆に言えば「ブスは克服できるよ」とか「せめて心は綺麗に保とう」みたいな言葉は
より一層「ブス」を追い込んでいくだろうということ。

これらの言葉は「ブス」=悪いもの、克服すべきものという価値判断によるもの。
押し付けられるがままにこれらの言葉を受容すると「ブス」が悪いものだと自らも認めることになります。

ですから結局のところ「ブス」を救うには、「みんな違ってみんないい」論を採用するのがいちばん早い気はします。
それがまったく出来ていないからこういう状況になっているのだとも言えますが…。

「みんな違う」が当たり前のこととして受け入れられるようになればいいと思います。