「自己責任」とは「私ではない誰かに責任を押し付けます」の意
日本語でいう「自己責任」は“self-responsibility”とは訳せない と考えています。
今日はそんな話をしてみようかと思います。
イスラム国による邦人人質事件。湯川さん、後藤さんの2名が亡くなったと報道されています。
私は、あえてこの話題を取り上げるのをこれまで避けてきました。
というのは
「どの(スポーツ)チームを応援しているかといった話題はむやみに振らないこと。
友達であっても振らない方がいい。厄介な喧嘩になるよ」と母親に言い聞かせられて育ったから…なんですが。
これを最初に言われたのは小学校に上がるときぐらいだったかな…?
好きなもの・応援(支持)するものは人によって全然違うから
そのことを配慮しきれないうちは、人前で安易に話題にするべきではないよ。
おそらく、このような意味のことを母は言いたかったのだと思います。
そして「厄介な喧嘩」…これは「宗教戦争」のことを指していたんじゃないか、と。
私はイスラームに無知すぎる。イスラームを信仰する相手のことを配慮しきれない。
だから、言及しなかったんです。厄介な喧嘩、したくありませんから。
が、腹に据えかねる記事を読んでしまいまして、今回の記事執筆に至りました。
後藤さんの殺害が報じられる前に投稿されたものです。
後藤さんは「大迷惑」をかけているから、「自決」してほしい。こういう論旨。
賛同している人もそれなりにいます。よく言ってくれた、というように。
説明すれば説明するほど胸糞悪いので端折りますが。
はっきり言います。
「自己責任」なのだから「自決」でケリをつけるべき
という主張をしたり、それに同調したりする人は現実逃避がしたいだけ なのだと!
ぶっちゃけて言えば、
この状況下だと湯川さん・後藤さんのことは可哀想ですが見殺しにせざるを得ませんでした。
少なくとも私はそう考えています。
「自己責任」なのだから~と言っておけば、「見殺しにした」という事実から目を背けられますよね?
だからこういう主張をしたり、それに同調したりする人が出てくるのだと思います。
ここでいう「自己責任」という言葉が必ず発話者以外の誰かに向くのも
「私には負いきれないもの」は他人に押し付けて現実逃避してしまおう、という意図があるためです。
よく言われる「自己責任」は“self-responsibility”とは異なる、と私が主張しているのもこういう理由からです。
日本における「自己責任」の概念を伝えるにふさわしい英語は存在しないので、
近いうちに「ジコセキニン」という英語ができるのではないかな?と思っています。
それから個人的にもう一つだけ気になる点があります。
「税金を使ってまで助ける価値はない」といったことを主張する人。
これ、言ってしまえば社会保障を真っ向からぶち壊す発想ですよね。恐ろしい。
一度でもこの理屈が通ってしまうと、自分の命も国から一切保障されなくなりますが頭大丈夫ですか?
この「税金を使ってまで」という言葉も「私はその一端を担いたくない」という気持ちの表れですよね。
どんな形であれ、今起こっている出来事とは一切なんの関わりも持ちたくはないんだ、と。
要するに、自分ではその責任を負いたくないので「自己責任」と言って逃げている。
今起こっている出来事を自分とは関わりのないこととして切り離し、目を向けない。
これは政治についての人々の関わり方と重なるところがあると思います。
自分では責任を負いたくないから投票もしないんですよね?わかります、わかります。
私は、今起こっている出来事と自分との関わり方についてもっと考えていきたいと思っています。
なので、これからも自分がある出来事に対してどう感じ、どう考えるかを書き続けていきたいと思っています。
▲ご意見、ご質問などあればこちらのフォームをぜひご活用ください。
(ブログのコメント欄およびブクマコメントとは違い、匿名で利用できます)