21歳の大きな子供が考える「おとな」と「成人」の話。
今週のお題「おとな」について書いてみます。
ワタクシ、現在21歳。日本では「成人」として扱われる年齢です。
子供の頃から抱いていた「選挙で一票を投じる」というささやかな夢※も叶いました。
(※特に深い理由はなく、ただ投票するという行為に憧れのようなものがありました。)
私は「成人」と「おとな」は違うというように考えています。
特に自分のことについて言えば、現状こんな感じ。
・社会の中で「成人」として扱われるということに留意しなければならない
・「おとな」から「おとな」として認められる人間になるための努力が必要
ここでは「成人」と「おとな」とを区別して考えましたので、
このことについてこれから詳しく書いていきます。
「成人」は20歳から、と日本では定められています。
「成人」である20歳からお酒もタバコも嗜んでよいとされているのは
節度を持ってこれらを楽しめる、自分で責任を取れる(尻ぬぐいできる)年齢として
20歳以上の人をみなす、という意味だと私は理解しています。
一方で、「おとな」ってなんだろう??
「成人」と「おとな」が真に同じ意味の言葉であるなら
どちらかの表現は廃れてしまっていてもおかしくはありません。
私は「成人」という言葉も「おとな」という言葉も残っていることに
なんらかの意味があるだろう、と考えました。
実際のところ成人もおとなも「道理をわきまえている(べき)」人、
つまり分別のある(べき)人という意味合いで語られることが多いように思います。
( )内に「べき」を入れたのは私を含め、世の中はそうでない人の方が
圧倒的に多いように感じているからです。
つまり「成人」も「おとな」も求められている要素は共通しているけれど、
「成人」は20歳を迎えると必然的にそのように扱われるようになる、ということで
「おとな」とは異なるのではないだろうか、という考え方です。
ややこしい書き方になってしまいました。つまりこういうことです。
・(日本においては)20歳を迎えると「成人」として扱われ、
「分別のある(べき)人」としての責任を果たすことを求められる。
・【重要】20歳以上であれば原則として誰でも「成人」扱いされる。
「成人」と「おとな」で決定的に違う(と私が考える)のが下線部です。
年齢による区別をせず、単に「分別のある(べき)人」としてみなされるのが
「おとな」なのではないでしょうか。
恥ずかしながら、私には「おとな」として認められるに至らない
未熟な人間(=大きな子供)だ、というような自覚があります。
けれども私は既に社会の中で「成人」として扱われる年齢には至っています。
ですので、実際には未熟な人間であろうがおかまいなく、
社会の中では成熟した人間と同様に扱われることになります。
このことを十分に理解し、対応していく能力を養わなければなりません。
それと同時に、真に「おとな」として認められるよう成熟するための努力も必要です。
「おとな」として認められるにはどうしたらいいか?という手段についても
自分なりに考えていることがありますので、
このこともまた後日記事にしたいと考えています。